おはようございます。内勤事務担当の滝沢です。
スタッフブログをご覧いただきありがとうございます。
前回(旅行)のスタッフブログの続きをお話し、ご紹介したいと思います。
マーライオンを見てきました。
マーライオン (Merlion) はシンガポールにある、上半身がライオン、下半身は魚の像である。材質は全身コンクリート製で波を象った台の上に乗り、口からは水を吐いている。
概要:同国の象徴的存在である。シンガポール近辺にかつて栄えた都市の名「タマセク」(ジャワ語で海の意)にちなみ “mermaid(人魚)” と、シンガポールの名の元になったライオンを合体させたと言われている。
歴史:像は、1972年に当時記念物委員会の会員であり、ヴァン・クリーフ水族館の館長でもあったフレイザー・ブルーナーにより設計され、地元の彫刻家のリム・ナン・センによって作られた。当初は水を常時吹き出しており観光名所であったが、ポンプの故障で水が出なくなり、また近くに橋が架けられ正面から見えなくなった。
しかしその後、2002年5月8日に海際に新設されたマーライオン・ピアに移転され、9月15日には正面から見えるように桟橋もつけられた。
故障していたポンプも修理され、再び水もほぼ常時吹き出すようになり、徐々に人気を取り戻している。2009年2月28日、落雷によりたてがみと右の耳、土台の一部を破損する災難に見舞われる。事故の直後、居合わせた30人前後の観光客が飛散した破片をよけようと逃げ惑う騒ぎになったが、けが人は出なかった。
2010年のシンガポールユースオリンピックではマーライオンの子マーリー(Merly)が大会マスコットの一つに設定された。
由来:11世紀にマレーシアの王族が対岸に見える大地を目指して航海の旅に出た際、途中で海が激しく荒れ、王族が被っている王冠を海に投げたところ、海は静まり無事にその大地にたどり着くことができた。その時、ライオンが現れて、王族にその大地を治める事を許して立ち去った。マーライオンの頭部はこのときのライオンを表している。
また魚の尾は、古代都市テマセック(ジャワ語で「海」)を象徴している。王族は、その大地を「ライオン(Singa)の都市(Pura)」を意味する「Singapura(シンガプーラ)」と名づけ、マーライオンを国の守り神として祭ったという伝説がある。セントーサ島にある「マーライオンタワー」では、このマーライオン誕生の歴史について映像形式で見る事ができる。
ミニマーライオン・マーライオンタワー:本家は高さ8mほどの像であるが、セントーサ島には、人が登れる37mの「マーライオンタワー」もある。セントーサ島のマーライオンは、一定の時間に目から光を放つ。
なお、シンガポールには計5つのマーライオンがあり、本家、セントーサ島の他は本家の背後のミニマーライオン、シンガポール政府観光局本局の前、フェーバー山にある。
比喩表現としての「マーライオン」 :マーライオンがその口から水を吐き出している姿から連想されるためか、「嘔吐する」といった意味合いで、「マーライオンする」などの婉曲表現が使われることがある。この場合、主に酔ったことに起因する嘔吐をさすことが多い。
また誰とはなく旅人の間で自然に語られるようになった「世界三大がっかり」という表現で、シンガポールのマーライオンとコペンハーゲンの人魚姫の像、ブリュッセルの小便小僧の3つのスポットの中の筆頭格として語られることもある。
「ラッフルズ卿」像
トマス・スタンフォード・ラッフルズ(Sir Thomas Stamford Raffles、1781年7月6日 – 1826年7月5日)はイギリスの植民地建設者、シンガポールの創設者である。
略歴:両親のことははっきりわからない。
14歳の時からロンドンの東インド会社で職員として働き始め、1805年当時プリンス・オブ・ウェールズ島と呼ばれていたマレー半島のペナン島に赴任し、マレー語を習得する。1811年、ナポレオン戦争当時フランスの勢力下にあったジャワ島へ英領インドから派遣された遠征軍に参加し、ジャワ準知事(lieutenant-governor)に任命され、統治に当る。このとき、ジャワ島の密林に眠るボロブドゥール遺跡を発見する。1815年にジャワ島がオランダに返還され、イングランドに帰国。この間、1817年に『ジャワの歴史』を著し、同年ナイトの称号を授与された。『ジャワの歴史』以降、「トマス」という名の使用をやめ、ミドル・ネームである「スタンフォード」を好むようになる。
1818年、スマトラにあったイギリス東インド会社の植民地ベンクレーンにベンクーレン準知事として赴任した。当地において、マレー半島南端の島シンガポールの地政学上の重要性に着目、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。同島の開港は1819年2月6日のことである。
ラッフルズは1822年から1823年までシンガポールに留まり、自由貿易港を宣して植民地の建設にたずさわった。また、鎖国中の日本と接触をはかるが失敗に終わっている。1823年イギリスに帰国している。
ラッフルズは植物学・動物学・歴史学など、当時の諸科学に多大な興味を寄せており、ジャングルの調査をみずから組織している。世界最大級の花「ラフレシア」は、発見した調査隊の隊長であった彼の名にちなんでつけられたものである(学名は、ラッフルズと同調査態に同行したアーノルドにちなみ、「ラフレシア・アーノルディー」と名づけられている)。
役職名について:ジャワ時代およびベンクーレン時代の彼の職名「Lieutenant-Governor」は、しばしば「副総督」と訳されるが、これは誤訳である。マレー海域におけるラッフルズの仕事は、終始東インド会社員としてなされたのであり、官職を記す際には英領インドの官職システムに沿った訳語をあたえなければならない。
英領インドにおける「Governor」は、ベンガル、マドラス、ボンベイの3つの管区の長であり、「知事」と訳されるのが通常である。それに対し、「総督」は「Governor-General」の訳語であり、これは3管区の知事の上位に位置する、英領インドの実質上の首長のことである。「Lieutenant-Governor」は、「Governor-General」ではなく「Governor」に「Lieutenant(準)」がつけられたものであり、実務上も管区知事より下位の役職であった。そのため、ラッフルズの役職名は「準知事」と記すのが適当である。
関連文献:信夫清三郎『ラッフルズ伝 東南アジアの帝国建設者』、東洋文庫123(平凡社)、1968年(旧版は、1943年、日本評論社刊)
アブドゥッラー(中原道子訳)『アブドゥッラー物語 あるマレー人の自伝』、東洋文庫392(平凡社)、1980年(底本は、1849年、手写本)
白石隆『海の帝国 アジアをどう考えるか』、中公新書1551(中央公論新社)、2000年
とっても有名な開拓者だったんですね。調べてみないとなかなかよく分からないですよね。マーライオン/ミニマーライオンも同様で意外と知らないことが沢山あるんですね。
それでは本日も一日よろしくお願いします。