皆さんが当たり前のように使用しているトイレにもちゃんと歴史があります。当然ながら、排泄行為は文明よりも早く行われており、トイレに似た場所は有史以来早くから記録されております。遺跡から発掘された結果、トイレとしての場として認められたものは「トイレ遺構」と呼ばれ、最古のトイレ遺構はイラク北部、アシュメンナにある古代メソポタミア文明のテル・アスマルという遺跡のもので、紀元前2200年頃のものと言われています。このトイレは下水道と直結型で、便座は煉瓦を「コ」の字に配列したものでした。水道菅は地下を通り、上に掃除用の通路が設けられていました。
また、同じ頃、ティグリス川とユーフラテス川のペルシア湾河口近くに位置したシュメール人の都市国家ウルの遺跡(テル・エル=ムカイヤル)からも、毛細管現象を利用した非直結多重構造タイプのトイレ遺構が見つかっています。
紀元前2100年ごろには一般家庭にも水洗トイレが設置されていたとされ、ギリシア・クレタ島を中心としたミノア文明にも水洗トイレはありました(便座は木星とされている)。
インダス文明の遺跡モヘンジョ・ダロは、腰掛け式トイレと整備された下水道が印象的です。隙間なく敷き詰められたレンガは防水加工が施され、詰まり防止となっています。一度集められた尿は沈殿槽に集められ、微生物により自然処理されたのち、上の液体だけを流すようなシステムとなっていました。沈殿物は有機農法に使用されていたとされています。
一方、エジプト王国では、それまでの習慣であった軒先での用便を改めるため、当時の王アメンホテプ4世は「トイレを屋内に作るべし」というお触れを出しています。そこで住民は壺の中に排泄物をため、肥料として使用していたとのことです。 これらのトイレの発達の一方で、まったく気を払わない文明も中にはありましたが、衛生状態の劣化からチフスなどの病気が蔓延し、多くが滅んで行ったとされています。
古代ローマは上下水道網が発達していたことで知られています。有名なものでは、紀元前600年頃、エトルリア出身の第5代王タルクィニウス・プリスクスが建設した大下水道網でしょう。これは、クロアーカ・マキシマと呼ばれた湿地であった土地の水はけ用の水路で、テヴェレ川に排水を運ぶシステムとなっています。紀元前100年頃には露天だったものにアーチが設けられ、ローマに生まれたこの水道システムはさまざまな土地で模倣され、もっとも有名なものではイングランド・ヨーク地方に、今でも見る事が出来ます。
水道の発達とともに設置されたのが公衆トイレです。その数は紀元前315年の時点で144カ所、紀元前33年には1000カ所以上にも及んだと言います。ローマの入植したトルコのエフェソス遺跡などにはその一端を見る事ができます。下水道が流れる上に設置された座席式の便座で、便座前に貯水槽があり、処理用の海綿が設置されていたとされています。しかし、水道整備が発達していたのは公衆トイレだけであり、個人住宅では穴のようなトイレで用を済ませていたようです。
中世ヨーロッパでは、上に挙げたような古代ローマのトイレ文化は継承されることなく、ほぼ有史以前のようなありさまとなったことで有名です。路上は便の異臭がただよい、衛生観念が失われた結果、疫病が蔓延した暗黒の時代でした。
修道院や城、宮殿にはトイレが備え付けられていたものの、ほとんどの住民は「chamber pot」と呼ばれるおまるを使用していました。それぞれの家庭のおまるがいっぱいになると、決められた場所で中身を捨てるという決まりとなっていましたが、ほぼその決まりは守られておらず、ゴミと一緒に窓から投げ捨てられていたそうです。14世紀には投げる合図のようなものも決まっていたとのことです。当時の都市部にはどこにも「不潔通り」があり、女子がそこを通る際は、人に背負ってもらっていたとも言われています。
ヴェルサイユ宮殿も、ルイ14世が居住していたルーヴル宮殿が不潔となったために引越しを急いだとされています。しかし、当初トイレとして独立した部屋はなく、274式のいす式便器がありました。汚物入れが引き出し式で取り出す事が出来、一杯になるとそれを処理していたとのことです。綺麗好きの従者はchamber potを携行しているものもありましたが、中身は庭に捨ててしまうため、ヴェルサイユ宮殿の庭は貴族たちの排泄物でいっぱいになり、ひどい悪臭を放っていたそうです。
これらを背景として、「黒死病(ペスト)」が大流行します。ヨーロッパ人がアジアに入植するようになると、コレラも1831年頃から流行し始め、1850年のロンドンだけで数万人規模の死者を出すこととなりました。その後、イギリス人学者ジョン・スノウの研究により、生水がコレラの病原となっている事が突き止められます(ちなみに、上下水道の未整備による疫病の流行は、今でも開発途上国の問題となっています)。
このことから、上下水道が急速に整備されていき、人々の間で衛生観念という意識が生まれはじめます。フランスでは、ナポレオン3世が1831年の政権奪取後、パリの都市改革に臨みます。老朽化した建物の改築の他、市街地に4本の大きな下水道を建築する計画がなされ、1861年に完成します。1867年のパリ万国博では、整備された下水道が海外使節団にお披露目されています。しかし、現在のような汚水処理は未整備であり、セーヌ川に汚水を垂れ流していたため、セーヌ川の汚濁がひどくなり、1889年、5年間の間にトイレの水洗化が義務付けられます。
このような形で、急速にヨーロッパの下水設備は整えられていきます。現在では、水洗トイレは一般化していますが、手洗い場が設けられておらず、手を洗う習慣がないなどかつての習慣が垣間見える事もあるようです。
一方、日本のトイレは歴史的にみてもヨーロッパよりも比較的清潔なものだったとされています。
川の流れが速い為分解速度が速く、また農耕への利用が進んだためです。
日本のトイレの先駆けは、川にせり出した桟橋で川に流すというもので、縄文時代の遺跡などで広く見る事ができますが、3世紀~4世紀にかけて屋内に川の水を導水したものが使われるようになります。これが「川屋」転じて「厠」になったという説もあります(建物のそばにあるという意味で「側屋」という説もあり)。
平安時代、貴族は漆器製の「樋殿」「樋箱」と呼ばれる携帯型トイレを携行するようになります。このトイレに立てかけられた、上に丸い棒のついた板に衣服の裾をかけて用を足していました。この「衣かけ」が転じて「金隠し」になったとされています。
鎌倉時代、二毛作が幕府に奨励されるようになると、堆肥としての利用が始まり、「閑所」汲み取り式のトイレが普及します。江戸時代、人の排泄物がほぼ堆肥として利用されるようになり、農家の住民が野菜などと排泄物を交換するようになったり、専門の人間が商売を始めるようになります。こうした再利用の手法から、江戸時代、人口が拡大した都市部においても町は清潔に保たれるようになりました。
この堆肥としての利用は明治時代まで続きますが、大正時代になると、安価な化学肥料が普及し始め、堆肥としての利用自体が少なくなってきています。戦後は衛生上の問題から堆肥としての利用が禁止され、山間部や海への廃棄が問題となります。昭和30年ごろには現在の水洗トイレが登場し、徐々に一般家庭へと普及するようになりました。
こうした旧来からの衛生習慣と技術大国の力が合いまり、日本のトイレは世界に認められるほどの高性能・高品質となっています。海外から来日したセレブやハリウッドスターが日本のトイレにほれ込み、購入したというニュースはよく耳にします。他にも、多くの公衆トイレは基本的に無料で使えること(ヨーロッパでは有料が多い)や、家庭用のトイレのアクセサリーの豊富さなどにも感動するとのこと。せっかく海外からいらっしゃるのだから、清潔なトイレでおもてなししたいですね。